ハチヤ・チャセンの徒が後世までも自ら空也上人の門流たることを自認していた次第は、前記の永山・倉光両君の文に見えているが、彼らは実に上人と深い因縁を有する鉢叩きの徒であったのである。上人の生れた延喜の頃は地方の政治甚だしく紊乱して、人民は国司の収歛誅求に堪え兼ね、当時生に安んぜずして自ら公民の資格を放棄し、課役を避けて僧となったものが天下三分の二の多きに及んだと三善清行は言っている。所謂下司法師・中間法師の徒となったので、その多数はともかく家に在って何とか生活の途を講じたものであろうが、中には家にいる事が出来ず、京都の如き大都会や、その他村落都邑に流れついて賤職に生きたものが少くなかった。所謂非人法師・散所法師となったのである。空也上人はこれら下層の落伍者を済度して職業を授け、傍ら托鉢に生活せしめた。所謂鉢叩きである。彼らは往々竹細工に従事し、その所製の茶筅や簓を檀家に配るの習慣を有した。これ彼らの徒にチャセン或いはササラの称ある所以である。鉢叩きは鹿杖すなわち鹿の角のついた杖を突き、瓢箪を叩いて念仏を申す。その鹿杖を突く事は、彼らがもと多くは殺生の徒であったが為に、その犠牲となった畜類に廻向し、罪障消滅を図るの為であったと解せられるが、しかも瓢箪を叩きながらこれを鉢叩きと呼ぶはいかなる故であろう。 |